公開日 2014年11月14日
更新日 2021年12月14日
はじめに
「平和のつどい」
- 8月31日(日)函館市地域交流まちづくりセンターで「平和のつどい」を開催しました。まずは,オープニング。亀田中学校合唱部による合唱です。 「虹」「夏」「響き合う命」「きらめきの町へ」の4曲を合唱していただきました。 総勢62名の合唱は感激ものでした。
- 被爆体験者講演会 講師は,広島市在住でヒロシマピースボランティアの川本省三さん。広島に原爆が投下された日,川本さんは11歳。学童疎開先でこのことを知ったそうです。原爆が投下された3日後,奇跡的に助かった姉が迎えに来てくれたそうですが,その時に,川本さんの両親と4人の兄弟が亡くなったことを知らされました。その後,助けに来てくれた姉も白血病で亡くなったため,1人で生きていくことになり,辛く孤独な生活が続いたということです。川本さんは,当時広島で2,000人以上とも言われた戦争孤児が悲惨な状況におかれ,餓死する子も多数いたにもかかわらず,行方不明者として処理されたことなど戦争の悲惨さについて語られていました。川本さんには,戸倉中学校,湯川中学校,遺愛中学校,桔梗中学校でも講演していただきました。
- 話し合うことで戦争はなくなると川本さん(左) 亀田中学校合唱部の生徒さんも講演会に参加(右)。真剣に当時の話を聴いていました。
- 子ども絵画教室 講師は,日本美術家連盟の鈴木秀明先生。参加した小学生は,鈴木先生に絵の技法を学びながらそれぞれ 「平和」をイメージした作品を描いていました。
参加した小学生の作品はこちらIMG_5912.JPG(2MB)
- 戦時食の試食も・・・メニューは「わかめ入り大根めし」「みそ味蒸しパン」「すいとん汁」です。函館市食生活改善協議会のみなさんに当時の状況を再現してもらいました。
当日のメニューのレシピです。→ menu.pdf(264KB)
- 会場では,折り鶴コーナーや戦時物品,原爆パネルの展示コーナーも設置しました。折り鶴コーナーでは被爆体験者講演会講師の川本さんにも折ってもらいました。来場者のみなさんに折っていただいた折り鶴は来年の広島市平和記念公園内の「原爆の子の像」に捧げられることとなります。
- 戦時物品展示コーナーには
- 左から・日章旗 ・千人針 ・奉公袋 ・「兵隊さんよ ありがたう」のレコードなどが展示されました。
- 千人針は,当時,出征兵士に贈られた弾丸よけのお守りで,1人1針ずつ縫ってもらい,1,000人の針目を通し,これに5銭や10銭の銅貨を結びつけるものが多く,1,000人の願いが結集して身の安全を願うという意味がこめられているようです。
- 奉公袋は,戦時中に兵士が戦地に赴く際の必需品を入れる袋で,中には,証書類や補充兵手簿などが入っていたほか,遺言状や遺髪も入れていた兵士もいたようです。
- 「兵隊さんよありがとう」は,昭和14年1月にコロムビアレコードから発売された流行歌です。「今日も学校に行けるのは兵隊さんのおかげです。」「お国のために戦った兵隊さんのおかげです。」といった歌詞になっていて,当時は児童向けに作られた歌でした。
- 最後に平和コンサートが行われました。コンサートには「マリンバアンサンブル木精(こだま)」さん「トロイカ合唱団」のみなさんが出演。マリンバアンサンブル木精さんです。古典や現代曲に至るまでさまざまなジャンルに取り組んでいます。世界的なマリンバ奏者達と共演する一方で,学校での公演をするなど活躍されています。今回は今話題の「LET IT GO」のほか,アベマリア,カノンなど8曲にわたって演奏していただきました。
- トロイカ合唱団のみなさんです。 総勢20名の大合唱団です。合唱団ができてから今年で62年。長年にわたり合唱のすばらしさを伝えてこられました。
- 会場には無料電車平和号も運行 たくさんの人に乗車してもらいました。無料電車は来年も運行します。
開催にあたって関係者の皆さんのご協力に感謝いたします。ありがとうございました。
長崎平和大使派遣
平成6年度の実施から今年で21年目を迎えた平和大使派遣事業。これまで広島・長崎に118名の中学生を派遣してきました。
間もなく戦後から70年が経過しようとしていますが,次代を担う彼らのような若者達への「平和」についての意識啓発は重要なことです。
今回,長崎に平和大使として派遣された大使4名にもその担い手として活躍してもらいました。長崎での奮闘ぶりをご紹介します。
- 長崎市派遣平和大使のメンバーです。
- 左から遺愛女子中学校3年川野さん,湯川中学校3年中山さん,戸倉中学校3年佐藤君,桔梗中学校3年鈴木君
- 青少年ピースフォーラムに参加 函館市代表として,これから,他都市の大使と一緒に平和について学びます。
- 青少年ピースフォーラムでは,フィールドワークも行いました。 長崎市内の大学生がピースボランティアとして案内してくれます。フィールドワークでは,山王神社を見学しました。山王神社の参道には,一の鳥居から四の鳥居までありましたが,原爆投下により,二の鳥居(左)は,爆風で笠石がねじまげられ,爆心側の左半分が,吹き飛ばされたものの奇跡的に右半分だけの一本柱の状態で残りました。また,山王神社の境内入口には,被爆クスノキ(右)がそびえています。原爆被災の貴重な遺構として,長崎市指定天然記念物に指定されています。原爆被災により,一時落葉し枯れ木同然になったにも係わらず,2年程度の後,奇跡的に再び新芽を芽吹き,次第に樹勢を取り戻し,現在は,その生命力にあやかろうと多くの参拝者が訪れています。
- 浦上天主堂敷地内にある原爆の熱線で鼻や指,腕がもぎとられたり,頭部を欠いた石像(左)と被爆当時天主堂の双塔に備えられていた鐘楼(右)です。長崎市では,このような被爆遺構の保存に努め,世界平和の祈願に役立てています。
- 青少年ピースフォーラム2日目の様子です。全国各都市の平和大使やピースボランティアと環境問題やいじめ,地域が抱える課題などさまざまな問題について語り合いました。
- 2日にわたった青少年ピースフォーラムが修了。今回協力してくれたピースボランティアと他都市の平和大使との交流も図りました。(左)。千葉県浦安市の平和大使との記念撮影(中央)。夜の交流会で仲良くなりました。(右)
- 被爆69周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列しました。69年前に原爆が投下された11時2分に黙祷を捧げました。大使達は,長崎市長の「長崎平和宣言」や被爆者代表者の「平和への誓い」に平和の尊さを感じました。祈念式典当日は,台風の影響による開催の中止も懸念されましたが,無事開催されました。
- 原子爆弾落下中心地碑(左)にて,1945年8月9日11時2分この中心地碑上空500mで原爆が爆発しました。爆発した瞬間の爆発点の温度は摂氏数百万度に達し,爆発からの1万分の1秒後には約30万度の火球を形成したと推定されています。
- 原爆資料館に展示されている被爆し破壊された時計(中央)です。投下し,爆発した11時2分を指したままになっています。浦上天主堂で被爆した天使像の頭部です。(右) 原爆資料館には,このほかさまざまな被災資料が展示されています。
平和大使派遣を終えて大使からのメッセ-ジ
湯川中学校3年中山萌瑛
私は,函館市平和大使派遣の大使として,長崎に行ってきました。たった一つの原子爆弾でたくさんの人をそして,心をも奪いました。平和祈念式典で平和の誓いを述べた方は,自分は被爆しても何もなかったものの,その後被爆3世である幼い孫娘が亡くなったそうです。たとえその時を生き延びたとしても,突然現れる原爆症で,多くの被爆者が命を落としていきました。原爆がもたらした大きな傷・恐怖は癒えることはないのです。私は,この話しを聞いてから,どこか遠くに感じていたものが一気に身近に感じました。
私は,もう一人の被爆者の方からもお話を聞きました。日本軍は,負けそうになると追い詰められ,アメリカ軍の最新の兵器にかなわない,攻撃しても意味のないような兵器を作っていたといいます,そして,原爆がおちてからのことを話してくれました。原爆が投下されると,光,音,においが一気に襲いかかり,パニックになったと言います。次の日の明け方にやっとの思いで自分の家の近くまで行くと,どす黒くなった灰の上に横たわる母の死体がありました。涙すら出ず,ただただ手を合わせるだけだったと言います。それから兄妹を探しに行くと,弟に巡り会えました。塩を買いに行くといって難を逃れたそうです。それからは弟と一緒にいました。すると段々弟が弱ってきて,病院へ連れて行きましたが,消毒してばんそうこうを貼るだけで終わってしまったのです。弟はやけどもしていたので,寝ていると,傷口から汁が出て化膿し,そこにうじが生まれ,焼けたところを食べました。すごく痛がっていて,医者に「助けてください。」と言っても,「どうすればいいのかわかりません。」と答えるだけだったそうです。
現在の進んだ技術でも放射能について解明できないことがたくさんあります。そんなものを69年前の技術・治療で治すことなどできるはずがありません。その後,弟は,「兄ちゃん,死ぬなよ。」という言葉を遺して死んでしまいました。被爆者の方は最後に「戦争への道に進まないように,しっかりと話し合い,間違った方向にいってはならない。平和への努力が一番大切だ。」と言っていました。戦争が終わり,今年で69年,来年で70年になります。戦争を体験した方が少なくなっている今,一番平和への努力がしているのは,体験した方自身だと思います。もう二度と戦争の悲劇を繰り返さないように,そして,今の若い人たちに自分たちと同じ目にあわせないように,思い出したくはないことを私たちに伝えてくれています。命がけといっても過言ではないこの平和への努力を,今度は,私たちが引き継いでいかなければならないと私は,強く思います。
遺愛女子中学校3年川野羽奏
私たち平和大使は,8月7日から8月10日までの4日間,函館から長崎に行ってきました。その目的は,9日に行われる平和祈念式典への参列や原爆資料館の見学,そして,全国各地から訪れる平和大使派遣団との交流を通して,核兵器の恐ろしさや平和の尊さを学び,周囲の人々にその体験を伝えるためでした。
2日目に朝早起きして,長崎平和祈念式典会場へ行き,函館市から集まったおよそ30万羽の折り鶴を運搬しました。そこでは,明日に向けての準備もされていました。台風の影響で大雨が心配され,屋内の開催も予定されていましたが,そのときは曇りで9日には屋外で決行できそうな様子でした。
その後,ピースフォーラムという全国から集まる平和大使派遣団と行う交流行事が行われました。その開会にあたって,原爆が投下された時に14歳だった深堀さんのお話を聞きました。その内容を紹介しようと思います。1945年8月9日原爆が投下された時,母と中学1年生,小学5年生の弟2人,そして5歳の妹の4人が爆心地から600mの所で被爆して亡くなりました。深堀さんは,学校(当時は工場にもなっていました。)に出向いていて,原爆の被害はあまり受けず,助かりました。しかし,ほかの皆を捜すと,原爆の熱によって即死した母と強い放射能を受け,ぎりぎりの状態で生きていた弟など,ひどい状況で発見されたそうです。医者に治療を頼んでも受け入れてくれず,亡くなる直前に言った深堀さんの弟の言葉が私の胸を打ちました。「兄ちゃんは死んではいけない。」ここで,深堀さんは,死んでしまった家族のためにも生きなければならないと思ったそうです。そして,私たちに話しを伝えるにあたって,意志も語ってくださいました。69年前の悲劇を絶対に繰り返さないために,戦争をしてはいけない,そして人を愛おしみ大切にしなければいけない。国の指導者の一方的なリードで一般国民は大切なことを知らされていないまま戦争に参加,敗戦へと導かれて犠牲となった。国民は,常に国が暴走しないためにも監視を続けるべきである。と言っていました。
この話を聞いたとき,私は頭の中で実際の光景を思い浮かべていたので,とても恐ろしく14歳という同じ年齢でこのような悲劇を受け止められるわけがない,そして今私の身にこのようなことが起こったらどうすればよいのだろうと怖くなりました。深堀さんの話を聞いた後は,実際に被害を受けた場所を見るためのフィールドワークが行われました。山王神社の二の鳥居や被爆クスノキ,長崎医科大学の門柱などこれらの原爆の被害を受けた場所を見て,あらためて被害の恐ろしさを感じることができました。
3日目の平和祈念式典では,被爆者代表の方が,自分が被爆してしまったから,被爆3世の孫娘が病気にかかって死んでしまったのだ,このような苦しみを抱く人は二度と出てはいけない,そして今問題となっている集団的自衛権についても,同席していた安倍総理に強く訴えていて胸を打たれました。今回長崎に行くことによって体験できた戦争の被害を見ること,そして被爆者の話を聞くことで戦争を二度としてはいけないという思いを持つことができました。その思いを平和大使の名を受けた者として,今回行くことの出来なかった人の分まで戦争についての意見を述べる際などに,積極的に責任を感じて発表,伝えていきたいと想います。
桔梗中学校3年鈴木駿
僕は函館市平和大使として3泊4日で長崎を訪れました。派遣の目的は,「1平和祈念式典への参列」,「2多くのことを体感すること」,「3学んだことを多くの人に伝えること」です。8月7日函館で出発式を行った後,出発しました。羽田空港経由で夕方6時30分に長崎空港に到着。この時間でも気温が34度あり,湿度も高かったため,外気に触れた瞬間に肌に張り付くような感覚でした。2日目の午前中は,大使全員で折鶴を式典会場まで運びました。色鮮やかな鶴が装飾された会場は,犠牲者の御霊も静めてしまう程の美しさでした。午後からは,長崎の原爆で被爆し,家族を失った男性の講演に参加しました。あまりにも痛々しい内容に耳を疑いました。69年前の1945年の長崎の放射能,熱爆風によって,多くの人が亡くなり,街は大きな被害を受けました。神社の鳥居は吹き飛び,浦上天主堂は破壊され,地獄絵図のような惨状でした。ところが,それから69年後の長崎はそんなことを感じさせないほど回復していました。被爆したクスノキは命を吹き返し浦上天主堂は再建されました。爆心地には花が添えられています。8月9日は平和祈念式典に参列しました。各地からの参列者で会場は溢れていました。原爆が投下された11時2分には黙祷を捧げました。
僕から特に伝えたいことが3つあります。
1「歴史から学ぶ」です。長崎で原爆の恐ろしさを痛感しました。原爆資料館には目を疑うほどの展示物があり,胸が痛くなりました。「戦争は愚かな行為」だと強く思いました。また,黙祷がされた時には,周りの空気が一瞬で「あの時」に戻り,街全体が祈りを捧げているような感覚でした。
2「一人ひとりの力」69年前には焼け野原であった長崎を回復させたのは,神の力ではなく,人の力です。長崎を元に戻したい,そう願う人々の力が合わさり,長崎の奇跡は起こりました。「一人の力は小さくとも,力を合わせれば出来ないことはない」と思うことができました。
3「今,自分達ができること」原爆は,若い方々の命も奪いました。多くの未来がたった一発の原爆で失われたのです。今僕たちがここにいられることは,とても幸せなことなのだと感じます。好きなことができる,満腹まで食べられる,ぐっすり眠られる,なんて幸せなことでしょう。今,僕たちが被爆した方々のためにできることは,今を精一杯生きることだと思います。そのためにどんな小さい争いもあってはならないのです。長崎では多くの経験をしました。ありがとうございました。
戸倉中学校3年佐藤駿生
私は今回,平和大使として長崎に派遣させていただき,次の二つのことを学び,考えることができました。その二つとは,「本当の平和」と「これから私たちにできることは何か?」ということです。まず,「本当の平和」についてです。長崎平和祈念式典の際,参列していらっしゃった被爆された方々や,その親族の方々は本当につらそうな表情をしていました。そのような表情を見ていて私は感じました。「こんなに傷ついてる方々がたくさんいらっしゃるのに,本当に日本は平和なのか?」「平和の本当の意味とは何なのか?」と。私なりに考えた結果,平和とは戦争によって心や体が傷ついている人がいない世の中を指すのではないかと思っています。しかし,体の傷はともかく心の傷は一生治りません。
では,日本は平和ではないのでしょうか。そこで重要なのは二つ目の「これから私たちにできることは何か?」にかかってくると思います。近い将来,日本を担うことになる私たちに何ができるのでしょうか。おそらく私たちにできる事は,見聞きした原爆や戦争の悲惨さをしっかりと受け継ぎ,次の世代に伝えていく事だと思います。現在,実際に戦争を体験された方,被爆された方の大半は,80歳を超えています。この世の中に戦争被爆体験者がいなくなったらおしまいではいけません。1か月ほど前に私たちにお話してくださった川本さんのように,必死に自分の体験を後の世代へ語り継ごうとしている方はたくさんいらっしゃいます。他人事だと思わず真摯な態度で耳を傾けることから私たちの平和はかたちづくられていくのではないでしょうか。私たち一人ひとりの意志が未来を作っていくのだと思います。今回の平和大使としての体験から,多くのことを学ばせていただきました。このような機会を与えていただいたことを感謝しつつ,以上で平和大使派遣にあたっての報告とします。
核実験への抗議
- 函館市は,平成7年から臨海前核実験を含むすべての核実験に対し,抗議文の送付を行っています。これまで,フランスや中華人民共和国に核実験中止の要請や,インド,パキスタン,朝鮮民主主義人民共和国に核実験実施に対する抗議のほかアメリカ合衆国に核性能実験実施に対する抗議を行ってきました。これからも核兵器廃絶に向けて核実験への抗議を続けていきます。
- 昨年の11月には,アメリカ合衆国が,ニューメキシコ州サンディア国立研究所において,1回のZマシンを使用した核性能実験を実施していたとの報道に際し,同国に抗議文を送付しました。
○平成25年11月7日 アメリカ合衆国に対する核性能実験実施に対する抗議→函館市抗議文.pdf(79KB)
「核兵器禁止条約」の交渉開始等を求める署名にご協力ください
- 函館市は,広島市および長崎市が中心となり設立した平和首長会議に加盟しており,活動の一つとして「核兵器禁止条約」の交渉開始等を求める署名活動に取り組んでいます。
- 現在,市役所1階市民ホールおよび各支所において署名コーナーを設けておりますので,署名のご協力をお願いします。
- 署名については,平和首長会議のホームページにより電子署名も可能となっています。また,署名用紙をダウンロードして記入したものを総務部総務課あてに送付していただければ,当課から平和首長会議を通じて国連に送付いたします。
○平和首長会議のHPはこちらから
日本非核宣言自治体協議会について
- 非核宣言自治体とは・・・ 非核宣言自治体とは,核兵器廃絶や非核三原則の遵守などを求める内容の自治体宣言や議会議決を行った自治体のことです。現在,日本の自治体のうち80%以上がこの非核宣言を行っており,現在では約1,500自治体が宣言を行っています。函館市も昭和59年8月6日に宣言を行っています。
- 日本非核宣言自治体協議会とは・・・日本非核三原則自治体協議会は1984年に広島県府中町で設立されました。設立の趣旨は「核戦争による人類滅亡の危機から,住民一人ひとりの生命とくらしを守り,現在および将来の国民のために世界恒久平和の実現に寄与することが自治体に課せられた重大な使命である。宣言自治体が互いに手を結びあい,この地球上から核兵器が姿を消す日まで,核兵器の廃絶と恒久平和の実現を世界の自治体に呼びかけ,その輪を広げるために努力する」というものでした。協議会は全国の300近くの自治体により組織され,総会,研修会のほか,さまざまな平和事業などを通して設立の趣旨の実現に努力しています。函館市も昭和60年に加盟しています。
- 日本非核宣言自治体協議会のHPでは,各自治体の宣言文や平和事業活動のほか非核宣言率と加入状況などの情報が掲載されています。
○日本非核宣言自治体協議会のHPはこちらから